禅僧のおことば27
何かに挑戦してきましたか?
ある緩和ケアの医師が、死を前にした患者さんたちの声を聞き取ったそうです。もっとも多かった後悔は「挑戦しなかったこと」というものでした。
挑戦という言葉を、あまり大きく捉えないことです。「何かに挑戦することはとても勇気が必要で、中途半端な気持ちでできるものではない」。そんなふうに決めつけて、自らハードルを上げている人が多いように思います。
「大海も一滴の水から。大山も一つまみの砂から」という言葉があります。先のことなど思い浮かべることなく、まずは最初の一滴から始めることです。一滴や一つまみくらいならば、すぐにでも始めることができるはず。後悔を残すよりも、小さな水たまりをたくさん人生に残すことです。
禅僧のおことば26
やる前に諦めていませんか?
若い頃に抱いていた夢や、いつかやりたいと心に温めていたことが、いつの間にか陽炎のように薄れてしまっていることがあります。「どうせこの年齢から始めてもできるはずはない」と。自分ができることと、できないことを判断してしまうのです。
「どうせ」という言葉を心から追い出してみましょう。そして代わりに「もしかしたら」という言葉を引き出してください。「もしかしたらできるかもしれない」「もしかしたら夢に近づくかもしれない」。この言葉こそが、あなたの人生を輝かせてくれるのです。
小さな歩みかもしれませんが、それでも歩き続けることで夢に近づいていることだけはたしかです。すべてのことに可能性はあるということです。
禅僧のおことば 25
本当にやりたいことは何ですか?
「情熱を傾けられることをしたいけれど、それが何かわからない」。なんとも贅沢な悩みだと思います。
毎朝目が覚めて、窓を開けて外を見る。天気のいい日には心地よい風が頬を撫でてくれます。1日が始まり、今日やるべき仕事もある。そんな幸せなことがあるでしょうか。それでも「自分が思い切り夢中になれることを見つけたいのです」と言う人がいます。
幼い頃、自分の好きなことに夢中になっていたはずです。そんな純粋な心を思い出してみてください。成長するにつれて、私たちは情熱を傾けていたものを忘れてしまうのです。「それよりも大事なこと」があるように思い、それを優先することが大人になることだと思ってしまうのでしょう。
禅僧のおことば 25
人の幸せを願っていますか?
仏教の言葉の中に「四摂法(ししょうぼう)」という言葉があります。人がこの世で生きていくうえで大切な4つの心のことです。
- 一つ目は「布施」。自分のことはあと回しにして、相手のために尽くす心のことです。
- 二つ目は「愛語」。人に対して、慈しみある言葉を向けることです。
- 三つ目は「利行」。常に相手のためになる行いをすることです。
- 四つ目は「同事」。相手と同じ気持ちになって考えるということです。
自分の思いを大切にすることは、生きていくうえでとても重要なことです。自分自身を慈しむ心がなくては、人は生きてゆけません。ただし、自分のことをわかってもらいたいのであれば、まずは相手をわかる努力をしなくてはいけないのです。
禅僧のおことば 23
両親の思いを大切にしていますか?
私たちは赤ん坊のときから、さまざまな人のおかげで成長することができました。両親の愛情のおかげで一人前に成長することができたわけです。その両親への恩を忘れることは、すなわち生きることへの感謝を忘れることなのです。
仏教の経典には次のような一文があります。 「人の人たる道は恩を知り、恩に報いることである」
人間が人間らしく生きるということは、これまでに受けてきた恩に報いてこそである、と言う意味です。それができない「恩知らず」は人間の道ではないということです。
人生で道に迷ったり、立ちすくんで前に進むことができなくなったとき、そんなときにこそ、両親に会いに行くことです。
禅僧のおことば 22
本当の自分を知っていますか?
私たちは社会で生きている限り、さまざまな役割を担っています。仕事場に行けば自分に与えられた立場。家に帰れば、また別の自分がいます。あるいは近所づき合いの中にも、会社とは別の自分が存在しているものです。「これは本当の自分ではないな」と感じつつも、与えられた役割を演じなくてはなりません。
そんな自分を好きになれないと思ったりするかもしれません。しかし、あなたが背負っているたくさんの役割や立場も、あなた自身です。
ただし、あなたが今抱えている立場や役割が、あなたのすべてではないということも意識しておくことが大事です。
もう一人の自分は、必ずあなたの中にあります。いっさいの束縛から解放された自分の姿です。
禅僧のおことば 21
死を恐れていませんか?
死んだあとの経験を語ってくれる人は誰もいません。それが未知であるからこそ、人は恐怖を覚えるのでしょう。
道元禅師の『正法眼蔵』の中に「生死(しょうじ)の巻」という巻があります。そこには薪と灰のたとえが記されています。薪のときは薪としての存在があって、灰になれば灰としての存在がある。つまり薪と灰はまったく別世界のものである。どちらも絶対的な存在であるのだと説いておられる。
道元禅師が教えていることは、生きているときにはいたずらに死を恐れず、ただ今生きているということのみに目を向けなさいということなのです。今生きていることに感謝し、やるべきことを必死になってやっていけばいいということです。